本阿弥光悦

書、陶芸、漆芸、能楽茶の湯など様々な分野で才能を発揮した日本のダヴィンチ。遊び心を示す例として有名なのが、国宝「舟橋蒔絵硯箱」。「東路の佐野の舟橋かけてのみ 思ひわたるを知る人ぞなき」の句が蓋に書かれているが、「舟橋」の文字は蓋には書かれておらず、丸みを持たせた蓋の太いラインが舟橋を表現している。57歳のとき、光悦は徳川家康から京都の鷹峯に広大な土地を与えられ、そこでアートディレクターとしての才能を発揮する。

広大な土地を与えられとなっているが、鷹峯は洛外であり、洛中や江戸でないことから、実は家康に洛外に押しやられたと考えられている。

光悦と家康の関係は、千利休と秀吉の関係に似ている。権力者にとって優れた才能は恐れと嫉妬の対象になるのではないか。光悦は利休の様に政治に口を挟まなかったし、秀吉と家康との性格の違いもあり、自害にはいたらなかったと思われるが、おそらくそこには強い男の嫉妬が働いていたに違いない。男の嫉妬は本当に怖いものだ。