解体新書

中津藩医前野良沢(48)と小浜藩医の杉田玄白(38)が、腑分けの見学の際出会ったときに、両者ともに「ターヘル・アナトミア」を偶然持っていたことから、その翻訳事業が始まる。当初は小浜藩医の中川淳庵(32)を加えた3人に、奥医師(幕府医官)の桂川甫周が加わり4人が中心となる。後に何人かが加わり、平賀源内の紹介で、秋田藩士で画家の小田野直武が図版を担当している。翻訳に3年半かかり、神経という言葉を約するのに1か月かかったともいわれる。

 玄白にいわせれば、良沢は奇人であり、そのような人格は義父の影響が強いといわれる。良沢の義父は、良沢に「人というものは、世の中からすたれてしまうと思われそうな芸能は習っておいて、のちのちまでも絶えないようにし、現在は人が捨ててかえりみなくなったようなことをこそ、これを為して、世のために、そのことが残るようにしなければならない」と教育したらしい。

 まあ、どんなことでも人が誰もやらないことに勤しむのは楽しいものかもしれない。

良沢は学者肌で、完璧主義者のような性格で、玄白も真面目な人であったと思うが、より処世術にたけていたようである。良沢がいつまでも出版の許可を与えないことに業を煮やし、玄白は自分の責任で出版することを選んだようだ。良沢もそれなら自分の名前を入れてくれるなといったらしい(これには所説いろいろあるようであるが)。それで「解体新書」に前野良沢の名前は無い。

 その後、玄白は医学界をリードする存在となるが、良沢はオランダ語医学書の翻訳にひたすら勤しみ、出版もとくにせず、81歳で静かに亡くなったようである。

 玄白は83歳の時に「蘭学事始」を記すが、最後には袂を分かつことになったが、共に苦労した先輩であり、戦友である良沢のことをどうしても書き残しておきたかったのであろうと思われる。

 玄白と良沢がいなければ、日本人が現代医学の恩恵を享受することがどれだけ遅れたかわからない。

蘭学事始」をいつか読んでみたい。